厳しさと優しさのバランス


自由の相互承認という言葉がある。

お互いがお互いの自由を侵害しない範囲で自由は担保されるという考え方で、学校などはその自由の相互承認の感度を育む場所なのだと。

なるほど確かに納得。それさえ担保されていれば、学校の子どもたちも自由に主体的に学ぶための土壌が整う。

しかし、こうしたケースはどうだろうか。

私塾に通っているある生徒は、授業開始時からゲームをしている。先生の授業がつまらないからという訳ではなく、シンプルに学校ではできない自由を謳歌しているのだ。

イヤホンをしてゲームに取り組み、誰の自由も侵害していない。ただ、自分の世界に没頭している。これは、自由の相互承認の考え方としては、許容される範囲だと思う。

ただ、彼のことを想い、長い目で彼の人生における幸せを考えた時に、どう考えてもその時の授業を聞き、身につけることの方が幸せにつながる。彼の人生を豊かにする。そう確信した時、それを本人に伝えるべきか否か。

その判断すらもその子に委ね、結果自分の人生をどのようにしていくのかは、その子次第と考えるのか。

あるいは、こちら側としての想いだけでも伝え、判断はその子に委ねるのか。

ここが、凄く難しく、悩ましい。

例えば、大半の校則が存在せず、自由な学校と名高い麻布学園や武蔵は、一体どういった教育方針なのだろうか。

基礎学力がある子たちがふるいにかけられているからこそ、自由な校則ができるのか。それとも、自由の前提となるグランドルールがあるだろうか。

最近こうしたことを、悶々と考えている。

正解はないのかもしれないけど、書籍や現場に訪問して、自分なりの答えを出したい。


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