何のために生きているのか。
多くの人々が一度は考えたことのある問いだろう。もちろん自分もその1人だ。
この問いに答えを出せる人はどれくらいいるのか。千差万別の答えがあり、答えを出せていなかったり、そもそも考えたこともない人もいるかもしれない。
みなさんはどうだろう。この問いに自分なりの答えを出せているだろうか。
自分自身もまだ完全な答えは出せていないが、現状の暫定解はある。
それは生の実感。
生を実感するために自分は生きているし、それこそが生きる意味だと思う。
スポーツの試合でゾーンに入り、観客の歓声が透き通って響き渡る時。
我を忘れてひたすら夢中に遊んでいる時。
ひたすらに作品に向き合い、没頭し、自分の納得するアウトプットを創り上げられた時。
子どもたちが躍動し、その場にいる自分も躍動し、心の底にあるピュアな源泉のようなものが場に溢れ出している時。
心震える絶景を目の当たりにし、ただ呆然と立ち尽くす時。
旅先で危険な目に遭い、命を守る生存本能に支配されている時。
頭を金槌で殴られたような衝撃を、ふと開いたページの一節から受け取った時。
疲れた身体を労った手料理が、ずんと身体に染み渡っていく時。
何かの困難な目標を達成し、仲間たちと一体感を持って喜びを分かち合う時。
そして、今ここに集中し、この文章を書き上げている時。
こうした瞬間に自分は生を実感するし、生きていることへの感謝の念に包まれる。そして、清々しく青々しい、みずみずしい果実のような躍動感を内面に感じる。
このために自分は生きているし、人生の一瞬一瞬に集中し、充実させていくことで生の実感を感じる時間は増えていく。
哲学者ニーチェは、「生きることの絶対的な意味などは存在しないが、ああ、これが生きている意味なのだと実感できた生は生きるに値する」と言ったそうだ。
もしかしたら、ニーチェの言う通り、生きることに意味なんてものはなく、意味付けするものなのかもしれない。
そうだとするならば、言葉で作った意味付けは、自分にとっては不十分だ。
もっと身体の内から湧き上がってくるような、言葉では表現しきれないような感覚こそ、「生きる」という感覚だからだ。
そして、その感覚は、チクセントミハイや、マズローや、古の仏教が唱えたような、今ここに集中するフローの状態にも近い。
そうした状態を意図して何度も創り出せるようになれば、もっともっと生きることが楽しく、豊かになるだろうと思う。